◇『植物について、ふと…』
色んな環境に適応した植物をテレビなどで見ていると、これはあきらかに「考えてるわ」
って感じを受けるのです。
例えば、鳥に食べられないように、石に擬態してる植物とか、あるいは何年周期だか
知らないけれど、定期的に起こる森林火災に合わせて、火災直後にのみ初めて種子を
飛ばす植物(※)だとか、明らかにこれ、「何も考えてません」とは思えないんです。
つまり、「考える」っていうのは何も動物の脳だけに与えられた特権ってわけではない
と思うのです。
生きようとする意志を持ち、その存在(つまり子孫)を出来る限り存続させようとする
生命体は、「考える性質」みたいなものを帯びるのではないか。
◇『モノについて、ふと…』
少し話がずれるかもしれないが、人間が作り出したモノ(音楽や絵画、物語といったもの
も含め)に、「魂が宿っている」と感じることがある。
ヴァイオリニスト千住真理子さんのCDに、ストラディヴァリウス"デュランティ"を
初めて手にしたときの感想が書かれている。
『楽器が唄いたがっている。(中略)"デュランティ"は、唄いたくて唄いたくて、
300年の眠りから今、目覚めたのだ。』
あるモノが特別な存在感を持つことは確かにある。
祖父が付けていたマフラー、祖母が使っていた扇子。
モノもまた然るべき座標軸の一点と一点がつながることで、その存在を存続させる
ことができるのではないだろうか。
人はモノを選ぶし、モノも人を選ぶ。
「モノがある人に出会う」(即ちある条件を備える)ときに、本来の機能や意味が目を
覚ますのだとしたら、このとき、モノもまた「考える性質」に似た何かを帯びている
とは言えないだろうか。
◇『未来について、ふと…』
突然現実的な話になるけれど、国債の発行残高が780兆円になるというニュースを
聞いた。国民一人当たりの借金が実に800万円に迫る勢いなのだという。
私たちは誰も、生まれる場所も時代も選べない。
お金もモノも全然無い時代に生まれ育った人もいれば、その逆に借金を含め、モノに
溢れた世界に生まれ育つ人もいる。
容姿から社会規範、教育環境に至るまで、何から何まで無慈悲なくらいに不平等だ。
だが、私たち生物には必ず「個体としての死」という共通のENDがある。
ここだけは平等だ。
何が本当に大事なのか。
何をつないでいきたいのか。
色々な生物やモノと「これまでの話」や「これからの話」がしたい。
座標軸に加わりたい。一緒に考えたい。
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